野村和也監督インタビュー 前編からの続きです

ちょっとお話を変えて、GIGAZINEさんのインタビューを拝読させていただいた時、黄瀬総監督が、野村監督のテーマが「青春と卒業」だったということなのですが、これはどういうことなんでしょうか?

素子達の視点で見ると、義体化したサイボーグ達が古巣を卒業して、未来に向けて事件解決のためにイキイキと活動している青春像を描いているつもりです。彼らは、夢中で自分たちの新しい立場・世界を手に入れたくて、ガムシャラに事件を追っている訳です。だけど彼らは知らないうちに、その未来に行くことの出来ない人間・組織をある種淘汰していきながら突き進んでいくわけなんです。だから素子たちだけを追っていくと、青春の1ページを切り取ったという雰囲気になるんですけど、それと並行して残されていって辿りつけない人たち、バージョンアップできなくて「デッドエンド」の人たちがいる。その代表が501機関です。

古巣の501機関を卒業した草薙素子が、9課の草薙素子になっていく。対して、古い素子と一緒に死んでいく、歴史の闇に埋もれていくしかない501機関の人々。「青春と卒業」はその対比構造の表現のひとつでしかないんです。「青春や卒業」というワードだけだと、青臭さや明るい雰囲気があるんですけど、本当はそのワードにも影の部分がある。その影の部分がクルツ達...ということなんです。

ー何もかもが「紙一重」...色々な葛藤が見え隠れしながら結束が固まっていくという流れを拝見しながら感じましたね

ARISEの登場人物って皆、未来を信じているんですよ。ところが、GHOST IN THE SHELL時代の素子とバトーは未来を信じることに限界を感じているんですよね。だから、ARISEの素子はこの時代にしか存在しないんですよ、それが面白くて。そう考えると、余計にARISEの素子は、他の作品の素子像に合わせる必要が無い、この瞬間だけの素子でいいんだと割り切って、感情豊かに描いていいんじゃないかな?と思ったんですね。

「こんなの素子じゃない!!」と思われる方はたくさんいるとは思いますが、そんなことはないんじゃないかと僕は思っています。質問の答えとして合ってますかね?(汗

はい、結構聞きたいことは聞けてますので(笑)その中で、今回のストーリーで頻出する「パーツ」という言葉を選ばれた理由をお聞かせください。

僕というより冲方さんがこの言葉を選ばれました。ですので僕は「パーツ」というワードに対しては、特に自分で発信やオーダーはしていないんです。ただ、素子がムサ苦しい男たちを従えていくドSっぷり、素子に翻弄されつつも、つい嬉しくなってついていく公安9課の男たち、それには素子を信頼しているという大前提が成り立っているんですね。素子が信じて手に入れようとしている未来が、自分たちにとっても可能性のある未来だと信じているからこそ、ついていっているわけですよね。「こいつなら何か新しい世界(欲しい世界)を見せてくれるんだろうな」と思ってるからこそ、ついていく。それに対する素子なりの不器用な返し言葉が部品呼ばわりなんです。

パーツという言葉を額面通りに受け取ると、非常に無機質じゃないですか。でも内に秘めている意味も無機質か、と問われればそうではないです。パーツ呼ばわりするけれども、そもそも彼らがいないと自分自身も機能しない...。手に入れたいモノを手に入れる力が発揮できないことを彼女なりに分かっているんです。だから、「お前達のようなパーツは中々見つからない(手に入れられない)」んです。

パフォーマンス的にも遜色無く自分と一緒に未来を切り開いていける人達だからこそ、素子なりの愛情と思いやりを表しているということです。冲方さんがそう思われているのかどうかは僕には分かりませんが(笑)

そうですよね。また素子は全身義体で、パーツで構成されているからこそ、出てきた言葉なのかもしれないとは思いました。

あぁ...なるほど。素子にとって、一番身近で接しているもの、自分を構成している要素だから、というのはありえますね。

今度冲方さんに伺ってみたい話ですね。

そうですねぇ。もしかしから全然違う答えが返ってくるかもしれないですけどね(笑)

少し技術的な側面もお伺いしたいんですけど、4K、8Kと、どんどん映像の解像度が上がっていく中で、アニメーションの表現はどう変化していると思われますか?

難しいことしかないんですよねー…(爆笑)今まで曖昧でぼやかすことの出来た境界線が、どんどん狭められていって、ホントにクリアな絵作りをしていかないと耐えられなくなってきちゃうね、っていう。でも、その曖昧さが魅力のひとつだったはずのアニメが、このまま行くとフル3Dでないとダメだとか、むしろ実写でいいのでは?という。アニメの持ち味だった部分が追い立てられていっている。そうなると「高解像度に対応できるクリアな作品」と「そうでない、曖昧なのが持ち味だという作品」の2極化になっていくんじゃないでしょうか。

現行で自分たちが設定している解像度も、動きを滑らかにするための処理(スムージング)があるんですけど、このレベルの粗さも既にバレるんじゃないかと。そうすると、スムージングのレベルも変えなければならない。

作画用紙って、比率が変わったぐらいで元々はA4サイズが一般的なんです。それを、ぶわーって引き延ばされると絵が荒れるしかなくて。ARISEの劇場版ですら、解像度が足りないので、B4サイズに拡大していたり、A3サイズに素材を大きく作って圧縮していたりするんですけど、それすら耐えられなくなると思うと、とても恐ろしいですよね。本来時間をかけなくてもいい所に、お金や時間をつぎ込まなければならなくなるんだとしたら、それはちょっと問題が出てくるかもなとは思いますけど。

その意味で、今回の制作の中で、感じられたことはなにかありますか。

たとえば3Dは全然時代にあっているといいますか、自分も利便性を享受しています。ARISEでもそうですよね、戦車であったりロジコマであったり、造形だけではなく、エフェクトまで込で3Dさんに表現していただけたりするので、ますます作画って必要ないんじゃないかと思うくらいなんですけど。従来の作画のメリットは、メリ込むはずないものをメリ込ませたり、伸びないものを伸ばしたりする「嘘」の表現だと思っているんですよね。それこそがアニメ的表現方法ではないかと思います。だから、この表現すらも3Dで出来るようになったら、手書きのアニメーションの立場はなくなってくるかもしれませんね。

今はまだまだ、どう次手を打っていくか探っている段階なんですね。

そうですね、絵的な面白さをどう保っていくか。例えば人質が捕われているシーンでは、3Dで作った空間にガイドの人形を置いて、人質同士の間隔やポージングなどを指示しているんですけど、その人形に囚われすぎて絵が硬くなったり、妙に間隔が空いていたりして、凄く困りましたね。作業者やアニメーターさんがどんどん考えられなくなっちゃうのが怖いですよね。与えられた構図の通りにオブジェクトを置けばいいんだ、と先入観を持ってしまうのは恐ろしいというか。そんな感じですね…。

制作環境が激変していく中、いろいろな模索がこれからも必要なんでしょうね。ありがとうございました!

野村 和也 (のむら かずや)

1978年9月1日、長野生。『マインド・ゲーム』(04)、『鉄コン筋クリート』(06)などで原画を務めたのち、『電脳コイル』(07)で演出、『戦国BASAR弐』(10)で監督デビュー。STUDIO4℃を経て現在はフリーで活躍中。